昭和五十三年四月二十九日 朝の御理解

御理解第二節 「先の世までも持ってゆかれ、子孫までも残るものは神徳じゃ。神徳 は、信心すればだれでも受けることができる。みてるということがない。」


 御神徳は限りがない。
 頂くというても、もうこれまでということがない。みてるということがない。
 信心をすれば誰でも受けることができると仰る。
 いつも、此処んところを申しますけれども、なら、金光様の御信心を頂いておるという人は、もう金光教がはじまってこの方、どれ程あるか判りません。
 沢山の人が、金光様の御信心、金光大神のお取次を頂いて、そして、おかげを受けたという人はもう数限りがないでしょうけれども、御神徳を受けたという人は沢山はありません。
 信心すれば、その御神徳は誰でも受けることができる。そこで、教祖様が教えて下さる御神徳の受けられる信心とはというところを究めていないわけです。また、究めようとしないわけです。
 ただ自分の願いが成就すれば良いという様な程度の信心では、言うならば、御神徳を受けられないことが判ります。
 どうでもですね。まあ、「あの世にも持って行けれ、この世にも残しておける」と仰るのですから。
 大阪の阿倍野教会と言えば、それこそ、名実共に日本一の大変な御参拝の多い教会です。しかも、教会長は女の先生です。もう、八十からでしょうが、毎月御本部参拝が二千名というから、ねえ、大変なことです。
 その先生が言うておられることは、もう「家業の業」と仰る。ね。
 日参聴教、お日参りをさせて貰うてそして教えを頂くということと、家業をいよいよ行と思うてさせて頂けば、必ず、日勝り月勝り年勝りのおかげが受けられると仰っておられます。
 家業の業、私もそう思います。ね。
 本当に、家業そのものを行。もう今日は一日働いたけれども赤字になったとか、損をしたとか、そんなことは問題じゃないです。ね、結局、信心の修行として今日一日を過ごさせて頂いたということなんです。
 家業そのものを行。「此の方の行は、火の行とか水の行じゃない家業の業じゃ。」と。それに合楽では信行と申しております。
 表行は全廃されました。合楽では。
 もう合楽で水を被ったり、いわゆる水の行、火の行をする者はおりません。もう、心一つ、心行一つに絞らせて貰う。
 いつも心を神様に向けておく。心を向けとかんとですね、できません。
 昨日は竹葉会でしたから、十八日の日の月次祭の御説教を未だ聞いておりませんでしたから、ビデオに録ってありますからね、テレビで昨日見せて貰いました。
 その中に、合楽建設の願い、そこで合楽建設の願いということを、日々、家族で心掛けておるという人の話が出て参ります。
 今、合楽では、味の素も使われないそうだと言う話を聞いて、家に帰って家族中の者にそれを話した。
 だから、もう子供達に至るまで、日に千円ずつも使いよった子供達が、まあ、倹約をするようになった。
 ああ、もう味の素の段じゃない、もう電気も水道も、もうそこに心掛けさせて頂きますと、もう無駄の多いことに驚く。
 そして一月ちょうど、「この話を頂いて一月目にはこれだけのお供えが出来るおかげを頂きました」と言うて、そのお供えを持って来た時には、今までどうにも叶わなかった或る金銭のお繰り合わせ、これは大きな金額のお繰り合わせが、思いも掛けないところから思いも掛けないルートを辿っておかげを頂いたと言う、お礼にその日参拝してみえた人の話をいたしております。
 私は、信行とはそんなことだと思うんです。ね。本当に心をいたさして頂く。
 私は、私の部屋の電気は二つ蛍光灯の輪が付いとるでしょう、あれを必ず一つは消しとります。だから、パチッとスイッチを入れたら電気が点きますけれども、今まで十使いよったものは、五で良いということになるでしょうが。ね。
 もちろん、どんな小さい燭光の電気でも不必要な所には、もう使いません。
 同時に、ただパチッとつける。明々と座敷一杯にパアーッと電気が点く。
 もう、試してみてご覧なさい、あの一つで十分です。
 そして、何か読みものをするとか電気の下で何か仕事をせんならんという時には、点けても構わんのですから。ね。
 もう、一つ消しておきますとね、言うならば、十使うものは五で良いということになり、電気代が十円かかりよったものが五円で済むということになるでしょうが。
 そういう心を使うことが心行なんです。ね。
 お風呂に入らせて頂いたら石鹸一つの使い方、ね。いわゆる、タオル一つの使い方、 そして、それを言うならば気持ち良う後の人が使えれる様にと心を掛けることが心行なんです。ね。
 履物一つキチッと揃えるでも、ただ自分が綺麗好きだから几帳面だからの性格だけでした分では値打ちはありません。
 なしかと言うと、他の者が不揃えなことをすると、もうそれが気になってたまらん。 どうか一口言おうごつなってくる。
 綺麗好きではいけません。後の人が上がってくる時にキチッとこうやって履物が揃えてあったら、入ってくる時に思わず、「有り難いな」とか「気持ちが良いな」と思う。このことのために、昔のマル少が大祭の時に、あの履物扱いをする時に頂いた御理解です。「皆んなが有り難いと思いなさる様な下駄の預かり方を、履物の預かり方をしなきゃいけない」と言う。
 ただ、履物扱いをしよるだけではない。そこには、やはり心が込められ、実意が込められなければいけない。それが、心行。ね。
 自分の心ない行ないがです。言うならば「どうした人やろか」、「まあ、どうした奴じゃろうか、あん奴ばっかりは。信心しよってから」と、言われる様なことではいけないでしょう。
 「やっぱ、信心しとんなさる人は違うなあ」と、思われる様な心の使い方をいつもさせて頂くということ、心を有り難い方へ有り難い方へと使うということの工夫が信行です。
 始末、倹約をするでもです。ただ、始末、倹約をすることだけが美徳と言われておりますけども、信心はそれにもう一つ心が添えられなければいけない。ね。         私はこの頃、煙草を止めました。
 煙草を止めたっちゃ止めただけなら何にもならん、そりゃ、煙草代だけでも残るかも知れん。それを倹約と言う。
 だから、身を削り身を絞りしながらです。ただ煙草を止めました、その止めた煙草のお金がです、天地へ対する還元であり、今の合楽で言うならば合楽建設のための献納とお供えというようなことになる時にです。倹約が活きてくる。
 それがお徳になってくる。
 ただ、始末、倹約をしてお金がこれだけ余分に貯まったといっただけでは、ただ、それだけのこと。ね。
 電気を十使っておったのを五使う、そこに、言わば五だけは合楽建設にということになってくる時にです。昨日、十八日の月次祭の話を聞かせて頂いてから、まあ改めて思うたことですけれども、ね、自分の、言うならば、合楽建設、合楽建設と心を掛けること。そして、電気一つの上にでも、水道一つの上にでも、ね、思いをそこに、その思いそのものが心行なんです。
 神様に喜んで頂くためにとか、他人が気持ちが良い、他人が喜ばれることのためにと心を使うのが心行、そういう心行をさせて頂きながら家業の業。
 家業そのものをです。生活のための家業ではなくて、行のための生活ということになるのです。ね。
 だから、本当に心を切り換えるということだけなんです。
 もう家業の業、今、合楽で言われます家業の業、日勝り月勝り年勝りの必ずおかげが頂ける。
 家業そのものの行、百姓をしとる者は百姓、商売をさして頂いとる者は商売そのものを行だと思うて、日々を過ごさして頂く。
 必ず、日勝り月勝り年勝りのおかげが受けられることでしょう。
 ところが今日の御理解は、そういう生活が出来ておるというだけでは、御神徳にはならないと言うのです。
 家業の業が出来ておるから、日勝り月勝り繁盛のおかげは頂くけれどもです。それがお徳にはならん。あの世にも持って行かれこの世にも残しておけるという様なお徳にはならん。
 それから先の信心が、教祖が仰る信心なんです。
 御神徳を、信心すれば誰でも御神徳が受けられる。みてるということが無い。限りが無い。無尽蔵。そういうお徳。
 あの世にも持って行かれこの世にも残しておけるという様な信心は、今、家業の業。 信行。ね。
 それに取り組ませて頂くには、私ども、やはり願いでもあるところの日勝り月勝りの信心をさせて頂いて、段々、段々いつの間にか繁盛のおかげになってくる。
 けれども、それでそれがお徳になって来るわけではない。言うなら、それが代勝りのおかげになるということではない。
 そういう信心をしている人の一代は、そういうおかげを頂いとりましょうけれども、 ね、子供が信心が薄くなったり無くなったりしたら、それは、もうそれまでのもの。 だから、子にも孫にも伝わって行く程しの信心とは、お徳を受けられる信心をさせて貰わなければいけない。
 その、お徳を受けられる信心とは、ただ家業の業だ、信行だということだけではいけないということになります。
 今日は、或る人のことをお願いさせて頂いておりました。
 もう本当に、全身全霊を神様に捧げておるという感じです。
 自分もそれで自負しとります。自分はもう一切、神様、神様、もう神様のおかげを頂かねば立ち行かんことも良く判っておる。
 ですから、自分の全身を全霊を、神様に捧げております。
 神様に、言うならば、熨斗をつけきっておるわけです。信心生活とは、自分の生活のすべてに熨斗をつけた生活だと言われております。
 久留米の初代のお話の中にもございます。ね。
 御本部から見えた偉い先生が、信心生活ということについて御講話を頂いておられた。ところが、先生も私と同じで学問をしておられません。
 だから、偉い先生方の難しい、言うなら、理論的な理屈ばったお話が判らん。
 今日のお話は信心生活、本当に信心生活が出来たい、信心生活をさせて貰いたい。けれども、なかなか難しくて良く判らんから、お話を頂きながら神様に「只今、せっかく御本部から見えた先生の信心生活という話を聞かせて頂いておりますが、無学で一向に判りません。大体、どういう様なことが信心生活でしょうか」と言うて、お伺いをされながら目を瞑って話を頂いておられた。
 そしたら御心眼にね、生まれたばかりの、いわゆる真っ裸の赤ちゃんが、紅白の褥の上に、それをこう熨斗のように、その上から水引きを掛けたお知らせを頂かれた。 真っ裸の赤ちゃんが紅白の褥の上にやすませられておる。それをこう水引きを掛けておる。ちょうど、熨斗の様な恰好になりますね。
 それで大変な御神徳家でありましたから、すぐ、「はあー、信心生活とはそうことだな」と悟られたと言うのです。
 人間、生まれた来る時に、布一寸でも握って生まれてきたちゅう者は誰もおりません。それこそ、素っ裸のままで生まれて来ているのです。
 そこに、言うならば、衣類が着せられたり食物が与えられたり、まあ様々にして育っていくわけなんですけれども、生まれた時のままの姿、それに水引きを掛けた熨斗を掛けた姿が信心生活だと教えられたと言うことです。
 だから、生活のすべてに、言うなら、全身全霊に水引きが掛けられ熨斗がつけられておる生活を、信心生活と言うのです。
 今日、私がお願いをしておるその方も、本当に全身全霊を神様に捧げておると思い込んでおる人なんです。
 例えば、家の、此処におるわけじゃないですけれども、お道の教師にでも取り立てて頂きたいという人は、自分の全身全霊に、言うならば、神様へ熨斗をつけている様なものです。
 だから、なら、神様が、その人にどんどんおかげを下さるかというと下さらんでしょうが。
 もう、この氏子は神に全身全霊を捧げると誓うとる。御本部に行きますと、その誓いのものを書かなきゃならん。
 「生涯をお道のために捧げます」ということを。
 だから、如何に捧げますの全霊を全身を神様に、言うならば、捧げて自分を虚しうしておるというて、それでお徳が受けられるということでない証拠には、沢山の教師がおりますけれども、なら、御神徳を受けて教会の御ヒレイが輝いておるという風にはいきませんでしょう。
 それでも、教師自体が助かっていなかったら。ね。
 本当に、全身全霊を神様に捧げておると言う。私もそう思うし、自分もそう思って  おるだろうけれども、神様にお願いさせて頂いたら、よくこんな熨斗がありますよね、 海老の様な、昔はよう芝居の引き幕なんかに書いてありました熨斗があります。大きな熨斗なんです。ところが、あの熨斗の真ん中にはギュッとこう締めてあるでしょうが。それがね、何本かで締められとるのではなくて一本で、もう今にも切れそうな感じの、言うなら熨斗を頂くんです。
 私は、そして今日は改めて「ははあー、今日の御理解、御神徳を頂くということはこんなことだな」と、改めて判らせて頂いた。
 信心をすれば誰でも神徳が受けられる。しかも、それはみてるということがないという程しの、あの世にも持って行かれこの世にも残るという程しのもの。
 ところが実際、金光様のご信心を頂いておかげを頂いておられる人は沢山あるけれども、お徳を受けておられるなあと言う人は、もうごく稀であるということ。
 そこで、せっかくご信心を頂くなら、御神徳の頂けれる信心を身に着けなければならないということ。
 そこで、私は全身全霊を神様にもう捧げておりますと言うて、なら、お道の教師を志す人達はそうですけども、捧げておるからと言うて、言うならばお徳が受けられるものではない。
 それに、言うなら、信心の帯がしっかり出来るということだということになります。 水引のこう、熨斗ですね。熨斗がこう、海老を絵に描いたような感じで、水引の絵がありますよね、水引じゃない熨斗の。
 その中は、キュッとこう紐で結わえたようにしてある。これが一本細々と今にも切れそうな感じ。ね。
 だから、ここにガッチリ。それを信心の帯と今日は思わせて貰うた。
 信心の帯をせよ。「しっかり信心の帯をせろ」と仰る。
 その信心の帯がしっかり出来て、そして、全身全霊が神様の前に捧げてられて、はじめて御神徳という、言うならば、おかげに繋がってくるのです。
 そこで、阿倍野の先生のお言葉を借りるとです。
 「なるほど、これなら日勝り月勝り年勝りだけではない。代勝りのおかげが受けられるな。」ということが判ります。
 先生は、もう家業の業と、日勝り月勝り年勝りのおかげが受けられる。もう、家業の業に絞っておられる。ね。
 ところが、それだけではいけん。
 家業の業、それに日参聴教、これが加わっておる。先生の場合は。
 日参ということは、毎日お参りをするという意味ではないでしょう。なら、此処なんかは九州中からのお参りがありますから、そんなに毎日日参するというわけにはいきません。
 そこに、日参的信心がなされなければいけません。ね。
 そうすると、どういうことになるかと言うと、なら、宮崎とか鹿児島から毎日お参り出来ませんから、日参りをする心算で日初穂をさせて貰う。日参りをしておる心算で大祓信行だけは欠かしたことがございませんと言う信心。
 合楽では、これを申しますね。大祓信行の徹底ということを申します。
 同時に、日参をさせて頂くのですからお賽銭もちゃんと奉らにゃならん。お初穂もちゃんと奉らなければならん。                             それが、毎日出来て、月に何回なら何回お参りする時に、お供えが出来るというような生き方を、私は、今日は、全身全霊を神様に捧げておると言うても、信心の帯がしっかり出来なければおかげにはならん。                          どんなに合楽建設の願いを持ってです、始末倹約させて頂こうとしても、その始末倹約をしたものが言うならば還元されてこそ、はじめて意義が出てくるんだということです。
 その心掛けることが、今日は信行だという風に聞いて頂いた。
 皆さん、今日家に帰られたら、電気を一つ絞っときなさい。
 今まで二つがパチッと点きよったつがね、スイッチを入れても一つしか点かん。
 チイッタこれじゃあ薄暗いなという時だけ、こうして点けたら良いでしょうが。
 今まで、百燭使いよった人は五十燭で済むことになるです。
 そうすると、今まで十円お供えが出来よったものが、二十円お供えが出来ることになるじゃないですか。
 それがね、そこが、言うならば、家業の業、それに信行。
 そして、私はもう全身全霊を神様に捧げとりますと言う人がです。言うておるだけではつまらん。ね。
 私はお道の教師になっとる、全身全霊を捧げとると言うてもです。信心に精進の心がなかったら、言うなら、日参的、聴教的信心がなされていなかったら、如何に家業の業をして日勝り月勝り年勝りのおかげは頂けても、代勝りのお徳にはならないということ。ね。
 信心の帯をしっかり、それからと言うて、信心の帯をしっかりしとるけん、もう日参もしよりますと言うだけでもいかん。やはり、信心生活がなされなきゃいけない。     その信心生活をなら家業の業、全身全霊に、言うならば持って生まれたまっ裸の姿、 それが着物も着せて貰う、雨露を凌がせて貰う、それは一切神様のおかげであると言う頂き方が出来て、家業の業に精進させて頂く生活を、言うならば信心生活と言う。 信心させて頂いとるのですから、信心生活になってしまわなければ駄目です。それが、血肉にならなければ駄目です。
 ただ参りよります、拝みよりますだけでは駄目です。
 それが、どうでも代勝りに繋がっていく、その代勝りというそのこと自体が御神徳を受けなければ出来ることじゃないのです。
 なら、御神徳は信心すれば誰でも受けることが出来ると、言われるのに、実際は、受けておるのはごく少ない。
 そこで教祖様が仰る「信心とは、本当の信心生活」、それを又の言葉で換えるならば「信心とは、神を信ずる。信心とは真心。信心とは神心」と言うようにです。信心の過程というものが、段々段々、全身全霊を捧げるといったような在り方は、もう真でしょう。ね。
 けれども、信ずる心というものがいよいよ強うなっていくことのために、私どもが日々、日参そして聴教、そして家業の業。
 なるほど、これならば皆が御神徳を受けることがないでしょう。みてるということのない限りないおかげに繋がっていくことが出来るだろうということになります。
 いよいよ、信心生活を目指さして貰わなければいけませんですね。
 昨日、上野先生が此処へ出て参りましてから高橋さんのお知らせを頂いた。
 そして、或るいろいろなことを頂いておったんですけれど、「これは、上野先生、あんたでも、高橋さんでも同じことだ」と、「あれ程しの信心が出来る。上野さん、あんたでもそうじゃろうが」と、「信心の根性もしっかり誰よりも強い。しかも、言うならば、他人の真似の出来ん位の信心も出来たからこそ、神様はお道の教師にお取り立て下さった。にもかかわらず、体が不自由であるとか、御用が出来んといった様なことで、おかしいじゃないか。」と。
 「誰が見ても、聞いても、高橋さんの信心の話であり、また、信心の実際、行に表わしておられるということはです。誰も真似の出来ん位な信心が出来ておられるにもかかわらず、言うなら、難儀が続いておるということはどういうことなのかね。これ      は、あんたでも、高橋さんでも同じ様なことが言えるのじゃなかろうか。」と、ね。
 そこでです。言うならば、いよいよ御神徳の受けられる、言うならば、確信。
 教祖様のお言葉というのが、今、確か、黒板に書いてあるだろうと思います。ね。
 「出来て来ることが、おかげじゃからな。」と、仰ったということです。
 「出来て来ることのすべてが、おかげじゃからな。」と。
 「どんな問題でも起きてくる。それに一々腹を立てとったり、一々『そりゃ、困ったな。そげなことは困る。』と言っておるようことでは、おかげにゃならん。出来て来ることのすべてがおかげじゃから、それをおかげとして頂き抜く、言うならば合楽で申します『成行きをいよいよ大事に尊ばして貰う』といったところの徹底が欠けておることではなかろうかね。」と言うて、お話したことでした。
 今日は、いよいよ御神徳を受けさせて頂くことための、言うなら話を聞いて頂いた。
 そして、なら、決して難しいことではない信心の帯をしっかりすれば信心が楽しうなって来る。ね。
 全身全霊を神様に捧げとるからと言うて、それが言うならば、神様が喜んで下さることじゃない。それに、信心の帯がしっかり出来てはじめて、言うならば、御神徳の受けられる信心ということになる。
 それは、行の上に表すということもですけども、言うなら、家業の業の上に、ね。言うなら、日常起きてくるところのできごと、そのすべてをおかげとして合掌して受けれれる信心が本当に身に着いたら、こんなに有り難い、それこそ嬉しい喜ばしい、ね、そして愉快なことはなかろうと思う。
 御神徳は、ますます限りなく身に着いてくるでしょう。
 おかげは、いよいよ末広がりになっていくことでしょう。
 昨日、渕上君が佐賀の方の実家に、二、三日帰っとりました。
 今年から学院に行くんです。それで、学院に行く前に家にちょっと帰りたいと言うのです。そういう訳で帰っとりました。
 昨日、帰って参りましてから、もう本当に合楽での生活、それから俗生活、あちらは家族の方達が信心がありませんから、たった二、三日じゃったけれどもです。もう今まで感じたことのなかった程に、俗の生活というものがどの様にまあ悲しいものかということを見て来た。
 もう全然、今の合楽で修行しとる渕上君にとってはです。それもおかげ、これもおかげと思うことを皆、問題にしておる。
 「はあー、これが俗世間の、言うなら、難儀な氏子の姿だな。」と思うた。
 その俗な世界から離れて合楽で修行させて頂いておることが有り難いと思うた。
 もう、一時でも家に居りたくない様な感じがした。一時でも早う合楽に帰りたいと思うて、帰らせて頂いて、まあ帰って来たわけです。
 ところが、前を走っとる車がね、「六二七六」という番号が走っとった。ね。
 それを彼が「碌になろう。碌になろう。」と頂いたと言うのです。
 「碌」ということは「お徳」ということです。ね。
 本当にね、あの、お徳の世界に住んでいることのどんなに素晴らしいことか。
 そして、なら、私どもがその「碌」を頂こう、その「お徳」を頂こうということに  は、なら、俗世間のね、一般人と五十歩百歩といった様な生活ではいつまでたっても、 言うなら、「お徳」は受けられん。
 「碌」になるということは無い。「徳」になるということは無い。
 際立った、言うなら、自分の生活の現場でです、信心の無い者の姿がです。もう、実にあわれに悲しいものに感じられる。
 そこから、いよいよ自分が助かっていく。
 その助かっておる自分を他人に愛の心を持って、親切の心を持って、実意に伝えていかずにゃおられん。
 他人が助かっていくことのための御用に、その行の上に表していかなければおられないという、言うならば、切実なその心が神様の心なんです。神心です。ね。
 そういう心が育っていって、はじめて御神徳ということになるんじゃないでしょうかね。                               どうぞ